こんにちは。関根です(@sekinesulog)
またゆるーく更新していこうと思います。
今回は「内職」の話。
私のブログを読んでいる年齢層を見れば、まったくもって不要な記事でありますが、身近に大学受験もあと1年ほどの人がいるものなので、自分なりに高校時代に思っていたことを書いていこうと思います。
「内職」を否定する教師
まぁ、教師は教えることが仕事なので、「内職」を否定するのは当然のことなのですが、そこについては私は思うところがあります。
「内職」ってそんなに悪いことですかね。
そりゃあ教師からすれば、自身の講義に泥を塗られているような気持になるのは分かりますが、受験生も必死です。
正直大学受験なんぞで人生が決まるとは私は考えてはいませんが、しかしながら、「目指す目標に到達したい」という意思は尊重されるべきであるし、教師側も考えなければなりません。
そのために「自分の意思で始めた勉強」は必ず必要になるものだと私は思います。
全ての授業を真面目に受けて、その上予備校にも通い、宿題もこなす。
そうしてこなしていく内に自分にとって苦手な分野や、勉強しておきたいなと思う部分も沢山でてくるでしょう。
いざ勉強しようと思い立ったときには時すでに遅しで、沢山のスケジュールにがんじがらめになっている。
まあ、自己管理能力は確かに欠如しているでしょうが、「勉強したい」という意思は今後の人生においては大事なものなのだろうと私は考えます。
なので、頭ごなしに「内職は悪だ」と決めつけて断罪する教師はどうなのでしょうか。少しだけ生徒のやりたいことをやらせて、受験に失敗すればそれはそれで尊重してあげる人もいて良いのかなと思います。
教師側の事情も、もしかしたらあるのかもしれませんが(生徒の成績の向上で評価が決まる・・・など)教育、という公共性の高い仕事ですから、右に倣えという日本人特有の悪習に従うのではなう、人としての個性やそれぞれの考え方を尊重する柔軟さがあっても良いでしょう。
逆にこのことにより、自由は楽だが楽ではない。学習の自由さには最終的な目標達成を自分でなし得なければならないという責任がつきまとうものなのだ、という学びになるのかなと愚考します。
まぁ、そもそも勉強って学習意欲がすごく大事で、学びたい時に学びたいものを勉強できるのがやはり理想でありますが、それに見合った制度がないのも日本の問題かもしれませんね。(例えば飛び級制度や学習科目、計画のフレックス制度等)
最近ではインターネット文化の発達もありますから、それならばオンライン受講も選択肢に入るような(当然通学も可能)学校があっても良いかなと思います。というかそれが普通になればいいですね。
それと授業は単位制にして、授業の計画を自由に組めるのが最良でしょうか。
授業は自由だが、単位は自己責任です。(自由といっても迷惑行為はなしですよ)
これなら内職も可能ですね。
大事なのは何を学んだか
話が多少脱線するようですが・・・、やはり私が思うのは、勉強で誰に習ったかなんて全く大事なことではありません。
寧ろ客観的に評価されるのは「何を学んだか」だと思います。
なので、生徒にうまく教え込むことばかりに気を取られるのは違うかなと考えます。
教科書の内容だけを教えてその後は野に解き放っておけばいいのです。笑
例え話としては魚を取ってあげるのではなく、魚の釣り方を教えてあげて、あとは実践してもらうといったところでしょうか。
きっと勉強の必要性を感じた生徒ほどしっかり勉強するし、必要性を感じなければそのまま変わることはありませんが、「学習の自由」を謳う以上それは仕方ありませんね。
可愛い子ほど谷に突き落とすべきです。
その結果、学習内容で疑問が生じた時や、学習計画の立て方などはしっかりと相談を受けられる体制があればいいですね。
ただし、学校がこういうことをするなら「学習環境への配慮」はすごく大事だと思います。
勉強したい時に、長い時間勉強できる場所が必要です。そういう施設は高校側が用意してあげるのがいいでしょう。
スタバとかで一生懸命赤本を広げている高校生とかを見ると、場所がないんだろうなぁ・・・となんとなく勘ぐってしまいます。そこで集中できるならそれでいいのですが、コーヒー代も馬鹿にならないでしょうし、この実情を理解してあげる学校があってもいいかなと思います。
ここからは本当に個人的な意見ですが
宿題も学校からわざわざ出さなくていいと考えます。
大量に宿題を出す学校は生徒から学習能力を奪っている、とさえ思います。
やりたい勉強ややりたいことは自分自身の中から溢れていくものだし、そうあるべきでしょう。
どうせ勉強したいやつは勝手にやるのです。
その勉強にもしかしたら国語や英語、社会、数学といった教科は含まれていないのかもしれませんが、それはそういう個性です。もしかしたらそこから巨匠が生まれるかもしれません。
そういった個性が受け入れられる社会を特にこの日本では望みます。
また高校側で勝手に参考書のラインナップを揃えてきますが、使いたい参考書くらい自分で選ぶ自由があってもいいのでは?
レベルの合わないものを買ってしまう生徒や現状で無駄な参考書を揃えてしまう生徒もいるかと思いますが、それは良い失敗経験ですし、無駄なことではありません。
高校側でやるとすれば、いいところオススメの参考書を教えるくらいですかね。
先輩の意見とかも新学期にまとめたものを配るのもいいかもしれません。
それらをみて、実際に参考書も触って判断して高校時代の勉強パートナーを決めていくべきではないでしょうか。
私の時は、すでに高校から指定された参考書があって嫌々使っていたものもあったのでこんなことを思います。
そうそう、こういうのもいいかもしれません。
私の時代は生徒が創る授業はありませんでしたが、ゼミを組織して数学や歴史といった教科を生徒自身が教える授業とかあってもいいのかなと思いますね。(当然教師は授業進度や内容を監督・監修する)
それはそれで面白い授業が行われるのだろうと期待できます。
教師自身もきっと学ぶことがあるだろうと思います。
休日等に実施される講習なんかにこういった授業が導入されると面白いですね。
問題点としては生徒の前に立つことを強制されることになるので、人前に立つのが極端に苦手な生徒にとってはキツイ時間になるかもしれませんね。その場合については別の策を考えてなければなりませんが・・・・
今回の問題点とはブレるようですが
「部活の強制参加」とかもなんか違うかなーと思います。
部活と勉強の両立って本当に難しいんですよ。特に私みたいな人間には。
できる人がいてしまうから、「寧ろ優秀なやつは両立できる」みたいな論調もでてしまうのでしょうが、それでは何かに一辺倒になってしまう人間は駄目なんですかね。
勉強したい時に勉強だけしてたいやつも世の中にはいるわけですし、そういった人間も認めてほしいです。
「勉強を理由に部活をやめるやつほどできない」みたいなことを言う人も居ますが、頭の中を勉強一色にしたい時期もあるんですよね、これが。
私はよくわかりますね、こういう時期。
目標とか立てるとそれを邪魔するものがどうも許せなくなってくるのです。
んー駄目でしょうかねえ・・・。
・・・・・・・・・・・・
では話がどっかに飛んでいきそうなのでそろそろまとめにします。
まとめ
とまぁ、今回はそんな自由な学校もあってもいいよね、個性があってもいいよねって話でした。
お世話好きな学校が多いのはいいことなのかもしれませんが、やりすぎは良くないと思います。
寧ろほっぽらかす位のスタンスで、しっかり見守っている方がなんか愛情がある気がします。
以上
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