こんにちは。関根(@sekinesulog)です
この記事を執筆するのは非常に悩みました。しかし、最近メディアでもあまり取り上げられなくなった東日本大震災後の景色を私はどうしても共有したいとの思いからこの記事を書くことを決意しました。
この記事によって不快になられる方もいらっしゃることを予想します。申し出があればこの記事は即刻削除致します。
そして、私はあくまで派遣相談員として岩手県釜石市、大槌町に派遣されているので、相談内容を掲載することは秘密保持義務の観点からもすることはできません。
大まかな悩みを載せることは可能でしょうけど・・・。
さて、上記注意事項を読まれた上で先にすすんで下さい。
私の震災当時の記憶と、司法書士となった今
私は当時、高校3年生の卒業式を迎えていたことをよく憶えています。
進学先の大学もエスカレーター方式で早々に決めていた私は、卒業式もただの行事で、作業のように卒業式の段取りを確認していました。
どこにでもありふれた日常だったと思います。
何も変わらない日々を過ごす。ただそれだけ。
そして、卒業式の練習も終わった頃、学校全体がグラグラっと揺れました。
日本人でもある私にとってはこのような事にも特段驚きません。
「なんだ、震度3くらいか。」
そんなことを周囲で口にしている人も居ました。
ただのよくある普通の地震。私もそのように思いました。
しかし、教室に戻ってみると先生の様子がおかしい。
「東北で震度8の地震があったという情報が入った。東北に家族が居るなら直ぐに連絡を取れ!」
と。
幸い私の親戚も家族も東北にはいない。
安堵と同時に日本が地震大国であり、いつ札幌でもこのような大地震が起こってもおかしくはないんだということを思い知らされました。
それから家に帰ってみると、皆さんがTVで見たように私もニュースで沢山、津波に襲われる東北の様子を見ました。
とてつもなく衝撃的でした。
特に津波に襲われている人達が撮った映像が、なんともリアルで、生々しい映像で、どんな立派な映画だろうと伝わらないものがそこには写っていました。
これを見た私は復興支援を何かしたいと思いましたが、今、人が押し寄せても解決できないことの方が多いし、物資を送っても逆に迷惑になるかもしれないと考え心ばかりでも募金に協力することにしました。
当時高校生だった私にはこれくらいのことしかできない。
今になっても大した事はできませんが・・・。
それから時がすぎ、ブログでも散々書いていますが、私は司法書士という職業に就き、司法書士会が、復興支援派遣相談員を今でも粘り強く続けていることを知りました。
直ぐに協力したいと思い、派遣相談員として手を挙げました。
なんとかしたくても、何もできなかったので、そこに迷いはありませんでした。
しかし、補助金の手続きやどういう補助金があるのか、今の問題点等全く知識がないので、今回の派遣ではお荷物になったのかもしれませんが、何かすること・行動することが大事だと考えていますのでこれからも司法書士会がこの事業を続けている限り、時間を見つけてまた行ってこようと思います。
話は戻りますが、先日、派遣相談員として岩手県釜石市、大槌町の様子を見てきました。
以下で様子を掲載したいと思います。
大槌町の様子
城山公園から見た大槌町の景色です。
この画像からはあまり伝わらないかもしれませんが、道路には絶えずトラックで盛り土を運び、ショベルカーでがっちゃんがっちゃんやっています。
私はこのような殆ど建物が建っておらず、電柱だけが規則正しくそびえ立っている景色を生まれてこの方見たことがなく、なんとも言えない感情をいだきました。
同時に、津波の怖さ、威力、範囲に唖然とする他ありません。
どれほど逃げるのが大変なことだったのか・・・・。
どれほどの恐怖だったのか。
どれほどの人が亡くなったのか。
とてつもない事が起こったのだ、ということは理解できました。
城山公園から、盛り土を終えた土地に降りてきました。
見ての通り何もありません。ただ電柱だけが立っています。
私が凄いなと思ったことは、道路がしっかりと整備されていたこと。
建物を建てる準備はかなり整ってきた事。
です。
しかしながら、予定よりもやはり工事は遅れているようですね。
これだけ広い土地の復興となると盛り土の量も計り知れないものがあり、工事をしている作業員の方は決して手を抜いているわけではないと思います。
それだけ人知を超えた被害があったということでしょう。
私が衝撃を受けたのがこの看板。
先程の降り立った場所の近くにあるのですが、見ての通り大槌町の文字がありません。
大震災の津波は、町一つを消す力があったのです。
少しづつ進んできた復興住宅です。
ようやく建物を建設できるところまで来たのです。
沢山の人達の努力によってここまで復興できたこと、とても感服しました。
今、震災遺構としてのこすのか、のこさないのか、議論になっている建物です。
震災の記憶は、経験した方には語るのも、思い出すのも強いショックを与えるものだと思います。
現地に行き、余計にその考えは強くなりました。
しかしながら、これから生まれてくる世代にこの記憶を伝えていかなければならないことも確かです。
口では説明するよりも見たほうが早い、ということもあります。
なので、どちらがいいのかはなんとも言えない部分がありますが、私はできれば遺して欲しいと思います。
これからの世代が、大槌町役場に訪れることで復興支援に繋がり、記憶を繋いでいけるのなら、それはとてつもない価値を産むと考えます。
所詮何も経験していない人間の意見なので、スルーで構いません。
役場の後ろ側です。
役場で使われていた機材もそのまま遺っています。
プレハブですでに事業を再開されている方もいらっしゃいました。
ちらっと覗くと、お客さんも入っている様子で、人間のたくましさを感じる瞬間でした。
山田町の様子
町全体の写真があるわけではないのが、申し訳ないですが・・・
こちらは山田町の少し外れにある場所の堤防ですが、こんなにも分厚い堤防が砕け散っている事が確認できるかと思います。
津波の威力がどれほどのものなのか、想像できるかと思います。
ここに人間が巻き込まれたらどうなってしまうのか、直ぐに想像ができます。
たかが海水ではなく、津波は最早質量を持った物体と言えるのでしょう。
これはワカメではなく、ガードレールです。
ありえない方向に曲がっています。
相談員として仮設住宅を訪れてみて
相談員として司法書士らしいことが何かできたのか、と聞かれると全く何もできませんでした。
話を聞くことしかできません。
それでも、そういうことが分かっていても相談事業を続けてきた司法書士会は、私は誇りに思います。
仮設住宅を訪れてみると、殆どの方が私達、司法書士の事を知ってくれていました。
世間的な認知度は絶望的に低いのに、知ってくれているのです。
私はそれだけでとてもうれしい気持ちになりました。
できることはあまりありませんが、笑顔で対応してくださっていることに感動しました。
最も多かった悩みは・・・・
相談を受けてみて最も多かった悩みは
「公営住宅の当選は受けているけど、建物がいつできるのか、見通しが全くわからない。」
ということでした。
こういった不安を払拭するためには、国は逐一、どういう計画になっているのかご説明していく他ないと思います。
私達もできるだけ工事の計画等を把握し、状況を伝えることができれば、もう少し相談に乗ることができるのではないだろうかと思います。
・・・・・・
ちなみに
司法書士会の相談センターが大槌町にあります。
相談センターなのに、非常にわかりづらいところにあります。
大槌町にある「マスト」というショッピングモールの中に入っています。
もう少し広報をしたほうが良いのか、あるいはもう少し分かりやすい場所に移動したほうが良いのかなと思います。お金もかかるので簡単ではないと思いますが・・・。
まとめ
大槌町の状況、山田町の状況は少しかは伝わったでしょうか。
最近メディアが報じなくなったこと、また、支援団体の支援が少なくなってきていることを悲しく思います。
復興が進んできたとは言え、やはりまだ支援は必要だと思います。
私は何もできませんが、司法書士会の活動を通して今後も支援ができればなと考えています。
それでは。
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